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社長 溝口健一郎のコラム

第25回:急に具合が悪くなる

    濱口竜介監督の映画「急に具合が悪くなる」で、岡本多緒演じる森崎真理は、ヴィルジニー・エフィラ演じるマリー=ルー・フォンティーヌに、マリー=ルーが勤めるパリ郊外の介護施設「自由の庭」で、資本主義と民主主義の現状について解説する。資本主義はその持続のために絶えず外部を必要とする。外部を搾取することで内部が潤う。その外部とは都市にとっての地方であり、先進国にとっての発展途上国/グローバルサウスである。そして何よりも人類にとっての自然である、と。そして民主主義も、この資本主義とセットとしてのみ機能しているのであって、民主主義それのみで普遍的価値として成り立っているわけではない。真理は、自分も資本主義の恩恵を受けて来たとして、「批判しているわけではなく、私たちの今を整理しているだけ」と言う。資本主義に対するこうした理解は新しいものではない。12年前に出版された水野和夫の『資本主義の終焉と歴史の危機』(以下『終焉』)では、「資本主義は『中心』と『周辺』から構成され、『周辺』つまり、いわゆるフロンティアを広げることによって『中心』が利潤を高め、資本の自己増殖を推進していくシステムです」と表現されている。

    数年前に乳がんと診断されその後肝臓にもがんの転移が発見された真理はステージ4の治療中である。真理は、芝居の演出家として活躍しており、明るく健康そうに見えるが、医者からはある時急に具合が悪くなるかもしれず、そうなると後は症状の進行が早いと告げられている。マリー=ルーは「自由の庭」で、財政面の厳しい制約と人手不足の中、認知症が進む入居者を個々の人格として扱う理想のケアの形を実現しようとしている。しかし、急な改革は施設で働くスタッフにさらなる負担を負わせることになり、一部スタッフの激しい反発を招いている。がん細胞は性質の異なる細胞からなるヘテロな集団であるため、治療によってそのうちのある細胞は殺すことができても、それ以外は生き延び、変異を繰り返して増殖する。増殖を抑制しても生き延びたがん細胞が増え続け、しきい値を超えると一気に宿主である人間の症状が悪化する。組織においてリーダーが改革を進めようとしてもチーム全員が素直に従うことはほぼない。めざすゴールは組織にとって良いものであったとしてもチームの個々人にとってのメリットが不明であることが通常だからだ。変化する際の負担は大きく、移行コストがリターンに見合うかもわからない。既存の組織を改革するよりも新しい組織を立ち上げた方が有利な場合も多い。組織にとっても人の身体にとっても“良いこと”が自明ではない。

    資本主義は終わりを迎えつつあると『終焉』は論じた。世界の地理的「周辺」は開拓され尽くし、その後の「過剰」を提供してきた電子・金融空間の「周辺」もまた消失しつつある。資本主義とは資本を投資して自己増殖する仕組みである以上、長く続く超低金利時代は投資してももうかる場所がないということであり、資本主義の終焉を意味するとした。しかし実際には資本主義は今も生き延びている。『終焉』は資本主義のサバイブ力を過小評価していたようである。まず、新たな「周辺」はデジタル空間にあった。21世紀の石油と呼ばれるデータを差異化のドライバーとして資本主義はさらに成長した。個人情報や蓄積された公共情報を活用することで米国のビッグテック企業は莫大(ばくだい)な富を築くことができた。1960年代に自然環境から価値を収奪する形で企業が成長したように、21世紀にはパブリックデータから価値を生み出して企業は収益を上げている。さらに最近では、AIによって人間の知的創造から、また、フィジカルAIによって物理空間から、価値を移転しようとしている。新たなフロンティアを発見する資本主義の貪欲さには限界がない。

    真理との深夜の長い対話、そして京都近郊の町への旅を経て、マリー=ルーはアプローチを修正する。入居者との人間らしいコミュニケーションを基盤とするメソッド「ユマニチュード」導入のステップを遅くし、スタッフへの移行時の負担を軽くする。また、入居者の家族や施設周辺の住民のサポートも取り入れる。これによって、ケアするスタッフとケアされる入居者という二項の関係ではなく、多様で広がりのある関係が形づくられていく。ユマニチュードという手法によって入居者を人間らしく扱うことで、スタッフの心も癒やされるということに皆が気づいていく。入居者をモノのように扱うことでスタッフの気持ちこそが傷ついていたのだ。真理は具合が悪くなってきているが、「自由の庭」ワークショップのファシリテーターとして働き、入居者の歩き方やマッサージを指導する。演劇のように互いを支え合いゆっくりと動くスタッフと入居者たちは、見ていると、誰が入居者で誰がスタッフなのかわからなくなってくる。中心と周辺はなくなって、混然、陶然としたシーンになる。

    近年、世界は急に具合が悪くなった。それはいつからだろうか。オバマ大統領が米国は世界の警察官ではないと宣言した時からか。トランプ大統領の就任時からか(1回目?2回目?)。COVID-19のパンデミックこそが元凶か。香港国家安全維持法が施行されたことがきっかけか。ロシアがウクライナを侵略したことが始まりか。ハマスがイスラエルを襲撃したからなのか。生成AIが爆発的に普及を開始したことによるのか。第2次大戦終結以降、世界の民主主義国家の数は増え続け、2002年には民主主義国家の数が権威主義国家の数を上回った。しかし、2024年に再び権威主義国家の数が民主主義国家の数を上回った。世界人口の72%が権威主義国家で暮らしている。世界の富の4割近くをトップ1%の超富裕層が所有し、ボトムの50%の人々は2%未満しか所有していない。確かに世界の具合は悪いようだ。一方、資本主義は終焉を迎える気配はなく、むしろ隆盛を極めている。富は蓄積され、技術革新が継続し、格差は拡大を続けている。資本主義を排除した国家運営をしているのは、北朝鮮、キューバ、エリトリアぐらいだ。真理が解説したように、民主主義は資本主義に乗っかってこそ発展することができてきたのだが、資本主義は今や民主主義を振り落とそうとしている。世界を救う「ユマニチュード」の探求が必要だ。

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